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慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)・・・後編

おはようございます。
山形営業所の小玉です。

今回は、長谷堂城の戦い(上杉軍撤退戦)・後編です。

長谷堂城後編1
 
慶長5年(1600年)9月29日に、伊達政宗のところに関ヶ原合戦で徳川家康
軍が勝利した知らせが届き、その報告はすぐに最上家にも届いた。
また上杉景勝の陣営にも届いたらしく、直江兼続は「時に利あらず」と言い
10月1日に、長谷堂城の兵の囲みを解き全軍撤退を命じた。

山形城主・最上義光自ら出陣、上杉軍が関ヶ原合戦の知らせに気づき、
全軍撤退をしている状況を見て最上義光が自ら鉄の指揮棒を持ち、
目指すは長谷堂城周辺から、富神山へ出陣した。
そして、伊達の援軍もそれに続いた。

その時の様子を表したのが、山形城(霞城公園)にある最上義光の銅像
であるそうです!
方角は富神山を鉄棒で指し、自ら軍を率い先頭に立ち出陣する光景を
彫ったものらしいです!


直江軍はうまく殿軍を行い米沢に逃れる。
直江軍は全軍撤退する中、前田利滝(慶次)・杉原親憲(水原)らが殿軍
(しんがり)を務めた。


鉄砲隊をうまく駆使し米沢に逃れることができた。前田慶次も60歳ほどの
老年ながら槍を振り回し勇猛果敢に戦った。
また直江兼続が作戦失敗のせいか切腹しようとしたが、前田慶次はそれ
を阻止。その攻め合いは激しいもので最上義光自らが先頭に出て追撃を
行うものだから、直江軍が撃った弾が最上義光の頭に命中し、側にいた
最上の軍師・喜吽も最上義光の目の前で肩から胸を鉄砲で撃たれ戦死した。




その時撃たれた兜は、天下統一を目指した織田信長により貰った
三十八間金覆輪筋兜と言われ、現在も弾の跡が兜の額部分に、ヒビが残った
まま最上義光歴史記念館に展示されている。
 
長谷堂城後編2

上杉軍の撤退のときに直江兼続も攻城戦失敗の責任をとり、自ら殿軍役を
した可能性もあるとの説も。

追撃戦の時にどうやって上杉軍は逃れたのかと言うと、鉄砲による
『懸かり引き』と呼ばれる戦い方で逃げれたと伝わる。
懸かり引きとは、まず兵を引いてしまうと、相手が全力を持って襲って来る。
そこで鉄砲隊を配置して撃つ。相手はたまらず一時撤退をする。
その隙に上杉軍は逃げる。最上軍は撤退するのを見るとまた襲いかかる。
また鉄砲隊を配置し、攻撃しては逃げる戦法です。

両軍多くの武将と兵が亡くなった約半月の戦いで、直江軍は高名な兵法者
で新影流の名人と言われた上泉主水泰綱(憲元)が討取られ、直江兼続の
片腕の溝口左馬之助は最上・伊達の追撃戦で重傷を負い陣まで戻るが夜に
息を引き取った。部隊長クラスの松本杢之助、岩井備中などの猛将も戦死した。
戦後村人達は上泉主水泰綱をはじめ、両軍の戦死者・2百余を埋葬し
『主水塚』と名づけた。

また最上・伊達軍も多くの武将を亡くした。最上義光の側近の堀喜吽、
志村藤右衛門、地元の豪族、佐藤理兵衛、そして伊達政宗の母・保春院の警護
を務め、江口五兵衛光清とは昵懇の仲(じっこんのなか)であった加藤掃部衛門
も討ち死にした。
伊達政宗の命により、最上へ援軍にやって来た湯目守重も遅沢川付近で上杉軍
と戦い亡くなった。

加藤・湯の目家の供養のために碑を作り、現在でも供養している。
 
長谷堂城後編3

次回は山形城についてお知らせします。


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歴史の舞台

いや~面白かったです!
その地を訪ねてみたくなるほどに興味を持ちました。
次回の山形城編も楽しみです。
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住宅地盤

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