真田丸


秋田本社、小玉です。

最近は大河ドラマ「真田丸」を見て、興奮しています。
もう大坂の陣、最終決戦で豊臣  対  徳川の闘いが始まっています。
いつ終わっても可笑しくない状況です。
私が山形に住んでる時から見ていました。
なので、終わるのが悲しい気分です。

ブログ始めた時は、戦国関係のネタで、ずっとやっていましたが…
今年はネタにする事もなく…泣

来年度から始めますかな!!!
考えておきます!笑(=゚ω゚)ノ


真田丸1

真田丸2

真田丸3



にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

大河ドラマ


山形営業所の小玉です。

大河ドラマ「真田丸」ついに始まりました。

真田丸


日曜日、夜8時にスタートし、
再放送は土曜日夜6時となります。

真田幸村の本名が分からなかった人は
勉強してると思い見てもらえれば、幸いです。

明後日で2話目の放送となります。

早く見たいです。


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

佐竹氏の紹介~その1~


おはようございます。
本日ブログ担当の山形営業所の小玉です。

今年も残りわずかとなり、最後はやはり戦国関係のシリーズで終わりたい
と思います。

今年の最後に紹介するのは私の故郷、佐竹氏の一族とその居城であ
る久保田城です。

皆さんは佐竹氏や久保田城と聞いて知ってるが細かい内容までは把握
していないと思いますので、私が何回かに分けてお伝えします。

まず、戦国時代の頃は佐竹氏は茨城県の水戸市にある水戸城に住んで
いました。豊臣五大老にもなりそうなくらいの全国で指折りの武将でした。
(天下統一を果たした豊臣秀吉の有力の武将の集まり、それが五大老で
あります。当時は佐竹義重から佐竹義宣に受け継がれた状況でした)

関ヶ原の戦いには毛利輝元を総大将とし、石田三成が指揮する西軍に
つくことにし、東軍勝利となり、秋田に移動してきました。
石高も54万石から20万石にまで減らされ、武将たちも数名までしか、
連れて行くことが出来ませんでした。

他にも西軍で敗北になった毛利氏や上杉氏が120万石から30万石におと
され、唯一領土を護った島津氏が86万石のままとなった。ちなみに島津氏
は全国時代の中で1度も領土を変わらずに護り抜いた一族です。
後に800年続いたとされ、有名である西郷隆盛や大久保利通を生んだと
されています。

佐竹氏1

佐竹氏2

佐竹氏3

最後にこれは言い伝えでありますが、佐竹氏は茨城県から秋田県に移動
してくる時に美人の女を連れて来て、ブサイクな女だけを置いていったとされ、
今では秋田県が美人ランキング1位で茨城県がブサイクランキングが2位と
なったんではないかと言われています。
現在、専門家が日照時間の1番短いのが秋田県であり、肌が荒れない環境
のため、美肌の人間が多いとされます。
ちなみに晴れた日より、曇りや雨の日が人間は記憶力が5倍以上とされ、
秋田の小中学生の学力が、高くなってる原因ではとも!逆に日照時間が短い
デメリットはうつ病になりやすく、自殺が多くなるとされている為、自殺率№1が
秋田県になってるのではと、、、

以上、ちょっとした情報も記載してお伝えしました。
次回も佐竹氏の紹介をさせてもらいます。

前田慶次の紹介

おはようございます。山形営業所の小玉です。

今回は上杉神社内の「前田慶次の館」について紹介したかったのですが、
残念な事に行った当日は館が閉じておりました。

前田慶次1 前田慶次2


ですので、今回は上杉家と前田慶次の関係について、簡単ながら紹介
させていただきます。

前田慶次は本名、前田利益といいます。
あまり知られてませんが、上杉の配下の部下だそうです。
前田慶次は元々は、利家と共に織田信長に仕える武将であったが、
日々のお城勤めに嫌気が射したのか、利家を水風呂に騙し入れさせ
自ら加賀を出奔したという逸話もあります。高禄で、あちらこちらから
スカウトされたが、旅をしながら自由奔放に生きたかったのか断って
いたとの事。
前田慶次が京都を旅していると、その頃上杉景勝と共に京へ上京して
いた直江兼続と出会いスカウトされる。自由に勤めるというのが条件と
いうことで、会津・上杉藩に仕官し上杉景勝に仕えることになった。
直江兼続に何か魅力を感じ、仕官を受け入れたのだと思われます。

最上義光の領地へ攻め入る時の、前田慶次の格好について上杉将士
書上にこう記されている。
『最上へ出陣のとき慶次郎は山城守宅で、黒具足に猩々緋の陣羽織に
金のひら高い数珠を首にかけ、数珠の房と金のヒョウタンを背に垂らし、
愛馬・松風の頭に金の甲をかぶせて馬に乗りどんすの袋に味噌やほしい
を入れ、鉄砲2挺を乗せていた』
朱色の槍を持ち、旗指には大武辺者(大ふへんもの)と書いてある旗指物
を付けていたそうです。


詩や和歌にも優れていた。長谷堂城の合戦により上杉家は会津120万石
から米沢30万石に移封されました。翌年の慶長7年(1602年)2月27日に
直江兼続の呼びかけにより、こので亀岡文殊堂27名の武将達と連歌を開
いた。その席にも前田慶次は出席していた。移封されたばかりで上杉家は
悲惨な状況化であったが、それを感じさせない賑やかな日々だったらしい
です。


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

上杉神社の紹介~その2~

おはようございます。山形営業所の小玉です。

今回は上杉神社の建造物の紹介を中心にします。

祭神は戦国時代の名将で、米沢藩の藩祖ととして崇敬されている上杉謙信
です。江戸時代、謙信の遺骸は米沢城本丸の南東隅にあった御堂に安置
され、歴代藩主の位牌と共に、真言宗寺院により手厚く祀られていました。
明治になって、仏式から神式に改められ、明治5年に謙信・鷹山を祭神とする
上杉神社の神号が許され、同9年に米沢城本丸跡(現在地)に社殿が建てら
れました。

同35年には別格官幣社に昇格し、この時に祭神は謙信一柱となり、鷹山は
摂社に祀られ松岬神社と称しました。

大正8年5月19日、舘山口町から出火し市内約1,070戸を焼失した米沢
大火で類焼、本殿などほとんどの建物が焼け落ちました。

神社の再建は、翌9年から始められ、同12年4月に完成しました。
唐門や透塀、檜造りの本殿・拝殿などに日本建築の美が感じられます。
また、鉄筋コンクリートで建てられた、重層切妻造りの宝物館「稽照殿
(けいしょうでん)」、校倉風(あぜくらふう)の祭器庫など、和風の耐火建築も
注目できます。

上杉神社建造物 (1)

上杉神社建造物 (2)

上杉神社建造物 (3)

上杉神社建造物 (4)

上杉神社建造物 (5)

上杉神社建造物 (6)


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

上杉神社の紹介~その1~

上杉神社 (3)
おはようございます。山形営業所の小玉です。

今回は上杉神社の紹介(その1)をします。

山形県米沢市にある神社です。
松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつです。

上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、次代の上杉
景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、
謙信の祠堂も米沢に遷されたました。
以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行っ
てきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内
から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転しました。
併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」と
した。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座
されています。

明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられ、この時鷹山は新たに
設けた摂社「松岬神社」に遷され、「上杉神社」は再び謙信のみを祀ることとなり
ました。
大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により
現在に残る社殿が再建されている状態となっています。

上杉神社 (1)

上杉神社 (2)

上杉神社 (3)

上杉神社 (4)

上杉神社 (5)

上杉神社 (6)

次回も上杉神社の歴史、現在の今や
上杉景勝、直江兼続、前田慶次についても何回かに分けて紹介しましす。


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

天童城の紹介~現在編~

おはようございます。
山形営業所の小玉です。

今回は天童城の現在を紹介します。


現在、中央郭は人間将棋会場として整備されており、遺構はかなり破壊
されています。

天童城①


その他の郭の遺構は比較的良好に残っているが整備が行き届いておらず、
藪化が激しい状態となっています。

山は段築が今でも確認され城の入り口である門も今でも残っている。

そして戦国時代に造られたであろう20〜30メートルほどの空掘もみられます。

天童城②


城の北東側の公園はとても綺麗に整備され、平日でも多くの人々が集って
います。

天童に来られたら1度、こちらの公園を見られてはいかがでしょうか?

損はないくらい紳士的なものが感じられます。

天童城③ 天童城④

天童城⑤ 天童城⑥

天童城⑦ 天童城⑧


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

天童城の紹介~歴史編~


おはようございます。
山形営業所の小玉です。

今回は天童城の紹介です。
2度に分けさせてもらいます。

今回は歴史についてと
次回は天童城の現在を紹介します。


まずは天童城の形状

天童市街地の南東にある標高242m、比高120mの独立峰、舞鶴山(愛宕山)
全体が城跡となっています。
山の大きさは直径800mほどあり、山全体に城郭遺構があるというので巨大
な山城である。
また、山形県内最大規模とされています。
山の何処に城があったのか明確ではないです。


天童城の歴史

1375年以降、天童城に天童氏が居城していました。天童氏は一門を領地に
分散配置することで村山郡に大きな勢力を築き、次第に最上氏と対立する
までになったとされます。
1577年、最上義光は天童城を攻め、天童氏は援軍を得て最上軍を撤退させ
るが、1584年に最上義光が再度攻めに来ると、あの最上義光の配下でも
有名な武将の延沢信景などが天童氏を寝返り、そのまま最上に勢いがつき
落城してしまう。そのあとは廃城になったとも。

1600年の慶長出羽合戦では上杉軍が攻め込んで来ても落城しなかったと。
また攻められてもないとも。

天保元年の1830年に天童藩主、織田氏が入り、陣屋は天童の田鶴町に
置かれたとのこと。
行政面を重視した近世後期の城郭であったが、戊辰戦争の際に焼失して
しまった。

天童城1

天童城2

天童城3


今回はここまでです。

次回は天童城の現在の様子を紹介します。


にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

長瀞城

おはようございます。
山形営業所の小玉です。

今回は長瀞城(ながとろじょう)の紹介です。

長瀞城は、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城です。
東根市長瀞地区に城跡がはっきりと残っています。
西根氏によって築城されました。後に最上氏の所領となり、4代目当主
最上満家が隠居の為に利用したとされます。その後は最上満種や最上
満宗の居城になったとも、長瀞左衛門尉が本拠を構えたとも・・・。
本格的に城郭が整備されるのは最上義光が入城してからである。

城の特徴としては水堀、土塁を二重に巡らせた方形輪郭式の平城です。
通常の城は三の丸までだが、四の丸まであったとされます。
ただし、遺構が残存しておらず、確固たる検証はできていません。

また、城跡がはっきりしています。地図を見れば明らかです。
仕事で地図を開くときには長瀞城の堀の形を目安として探すことも。
長瀞城の跡地は今も町の大本になっています。

ちなみに慶長出羽合戦では酒田、鶴岡側からの武将たちに攻められ、
酒田城武将の志駄義秀、大浦城武将の下吉忠が六十里越から寒河江城、
谷地城を攻めて勢いよく長瀞城に攻め込みます。
下の部将新関新五右衛門を中心に長瀞を攻め落城しました。

長瀞城1

長瀞城2

長瀞城3

長瀞城4


次回は天童城の紹介をします。

にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

東根城(東根小学校)の紹介

おはようございます。
山形営業所の小玉です。

今回は東根城(東根小学校)の紹介です。

現在は東根城小学校に東根城があったとされ小学校の敷地の周りは
石垣で囲まている状態です。

東根城5

東根城4

大ケヤキの木もあります。
この木は日本一と言われている特別の木となっています。

東根城1

東根城2

小学校の周りにも堀であったとされる池がいくつかあります。

東根城3


東根城は慶長五年関ヶ原の戦いがこの地にも及んだころ、徳川に恩顧をもつ義光と大阪方に組した会津城主上杉景勝が対立、上杉の臣、米沢の直江兼続が畑谷城、簗沢館、長谷堂上山と攻め、一方酒田城将志駄義秀、大浦城将下吉忠が六十里越から寒河江、谷地を攻めてきました。 さらに下吉忠の部将新関新五右衛門が長瀞を攻め落とし東根に軍を進めてきた。このとき城主里見景佐は主力を率いて義光勢に参じていたため守勢は少なかったが、奇略を用いたり、また半田助左衛門という勇敢な家臣が敵将新五左衛門に一騎打ちをいどみ、いまの東根温泉街道の近くの鷺の森地内でわたりあうが、敵新五左衛門の馬が水田に足をとられたために助左衛門に仕止められてしまいます。 これは鷺の森合戦として知られているが、その時の戦利品であるホラ貝がいまでも東根市荒宿の戸村家に保存されています。その後最上家が改易にになったあとは東根城は廃城となり、里見景佐は四国蜂須賀家に身柄を預けられます。その後寛文元年になると東根は幕府の直領となって城は陣屋にかえられさまざまな代官が移りかわった。
なお直江兼続は最上領土を攻め落としたのちにこの東根城を上杉領土の本拠地としようとしたとの話もある。

日本一の大ケヤキ

この地は、正平二年(一三四七)、小田島長義が築いた東根城が(小田島城)の本丸跡にあたる。 その昔、「雄槻」「雌槻」と呼ばれた二本の大槻があったが、明治十八年雄槻が枯れてしまい、雌槻だけ現在に残っている状態です。これが「東根の大ケヤキ」である。 山形県立林業試験場場長大津正英氏(農学博士)によれば樹齢一五○○年以上で、地上一.二mの幹周は十六mあり、さらに直径は五m。主幹は、地上五.五mの高さで大きく二股に分かれ、西南側のものがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝に分けて大空をおおい、その高さは約二八mに達する。平成元年五月、植物学の権威者である金沢市の里見信生氏が大相撲の番付表を模した「日本欅見立番付」を発表したが、「東根の大ケヤキ」は東の横綱に位置し、名実ともに日本一であります。

にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ
プロフィール

住宅地盤

Author:住宅地盤
=業務内容=
・地盤調査
(SWS試験,表面波探査)
・沈下特性の解析
・液状化の簡易判定
・地盤環境・軟弱地盤
・土壌汚染
・敷地調査・現況測量
・建物診断
(検査・住宅かし保険)
・セカンドオピニオン
・振動調査・動的耐震診断
・地震・液状化対策
・スーパージオ工法
・20年保証
・ホームアススタンス24
・スポット団信
・完成引渡しサポート
・既存住宅地盤保証

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
にほんブログ村 企業ブログへ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ